皆様こんにちは。共同管理人のOZ(オズ)です。今日は今までの話題性と方向性を変えて、私がアメリカに言って考えさせられたこと、初めてアジア以外の「外国」に滞在して分かったことを大きく2つに分けてお伝えしたいと思います。
一つ目は、日本と外国の「生き方」の違いです。主に外国の「個人主義」と、日本の「全体主義」についてのお話です。外国での暮らしの実体験を交えつつ、伝えていきたいと思います。
二つ目は、自分が「強く生きる」ためには、どうすべきか、ということです。こちらは、私の個人的な意見が入っている一方で、今の生き方に辛さを覚えている人に私が一番伝えたいことです。
では話を進めていきましょう!
(この記事においては外国、アメリカ、欧米はほぼ同義として取り扱っていきます。)
◆日本人と外国人の生き方の違い
1970年代からグローバル化が始まり、日本にも欧米の「個人主義」概念が入ってきてからはそのあり方が少しずつ薄れてきていますが、日本は依然として「全体主義」の風潮があります。いわゆる「空気を読む(≒周囲に合わせる)」ことを強要されている状態です。一方欧米では、そのようなことは一切起こらないことが通常なのです。ここに、日本と外国の生き方の違いが一番現れています。
辞書を引くとややこしいので、ここでの個人主義、全体主義は国に対してではなく、共同体内での意味と考えます。軽く説明しておくと、個人主義は「個人の自立独行、相互の意思表明、また、それらが互いに尊重されている」ことを指し、全体主義は「全体の利益が個人の生活を超えて優先されること」を指します。つまり、空気を読むことが必要なのか、あるいは必要でなく、その行動が尊重されているのか、という違いです。
ここからは例をとって、日本(全体主義)と欧米(個人主義)の違いを見ていきましょう。
例① 運動会
日本において一般的に行われる体育行事として、運動会、あるいはスポーツフェスティバルというものがあります。運動会そのものの起源はヨーロッパとされています(Wikipediaより)が、日本における運動会は「富国強兵」を目的として明治時代に発足し、日本独自の道を歩んでいます。今でも行われている集団演技や団体行進などはその名残です。外国ではこのような運動会はありません。ここに、代表的に日本独自の全体主義観を垣間見ることができます。
例② 飲み会
日本独自のコミュニケーション方法として、「飲みニケーション」というものがあります。これは会社の同僚と「飲む」ことでコミュニケーションをとるというものですが、ひと昔前の日本の企業では、この飲みニケーションが非常に活発で、2次会は当然、3次会までもあるといった状況が続いていました。最近はというと、完全になくなったわけではありませんが、1次会でお開きという企業が増えています。というのも、これはやはり、作業の効率化を図るためです。先ほどの話で問題だったのが、「飲めない」あるいは「飲まない」やつはダメだとか、印象が悪いだとかの固定観念が存在していたという点です。飲むことを強制し、ハラスメントを行ったり、その人の自由を奪うということが問題なのです。確かにコミュニケーションの場としては有効かもしれませんが、やりたくない人にそれを強制することはお門違いでしょう。その人なりの時間の使い方があるのですから。ここには、個人の時間よりも全体の利益を優先する全体主義観を見ることができます。
例③ 切腹、特攻
これらは極端な例であり、現在では適用されませんが、かつての日本は自分の命を他人にささげることが強要されるほどに全体主義が浸透していたというこれらの例を知っておいてください。
このように、日本は昔から全体主義が根強く浸透しており、グローバル化した現在でも未だなおその名残があります。他の人と「違う」ことはいけない、皆と「同じ」でなければならないという同調圧力が、現代人の「生きにくさ」の要因となっていると思います。
外国ではこのような同調圧力(=空気を読むことを強制する圧力)というものは存在しません。なぜならば、すべて言葉にして伝えること(個人主義の意思表明)が当然だからです。
例④ 言語
日本には古文と現代文において、多種多様な敬語が存在します。話す相手によってその形態自体が変容します。一方英語は、canとcould、willとwouldなどの少しの違いはあるものの、大抵はpleaseを付ければ敬語になります。お隣さんだろうが、上司だろうが、大統領だろうが、pleaseを付ければ敬語です。一方日本では話し方を少しでも間違えると印象がガラッと変わります。このような敬語の使い方は、相手を敬うという日本人の心を表している一方、自分を見失う要因にもなります。相手によって自分の人格を変える必要があるからです。例えば、Iは日本語で私、僕、俺など様々あります。Youもあなた、あるいは~さん、君など様々あります。人によって自分の形を変える必要のない外国と、変える必要のある日本では、自己同一性の揺れ幅がちがいます。実感はしにくいと思いますが、言語学という観点でこのような違いは人々の文化や生活に大きく寄与しているのです。
このような観点から、私は日本人の同調圧力から逃れ、「強い個人」をもって生きていくということがどのようなことかということを、外国に行って考えさせられました。
同調圧力というものは社会的な風潮なので、自分ひとりでその風潮を変えることはできません。かといって、そう簡単に外国で暮らすということもできません。変わるとすれば、それはあなた自身の思考の問題なのです。
◆「強く生きる」ためにはどうすればいいか
日本のような空気を読むことが重要となる国では、自分の自由を確保することは非常に難しい問題となります。日本人は他人に流されやすく、自分の意見を言おうとしないというのが、「シャイな日本人」としての、世界共通の日本人像です。強く生きるには、このような考え方を打破する必要があります。そのために、「自分の考え」というものを持ち、それを「おかしくない」と思う、確固たる意志の強さを持つことが重要なのです。なにか社会的なイベントがあり、「行きたくない」なら、「行きたくない」という考えを持ち、それを「おかしくない」と考えるべきです。なぜなら、それ以上にやりたいことがあるのですから。理由はそれだけで十分です。その意思は尊重されるべきです。しかし、日本社会ではやはりその考えが受け入れられづらい。ならばこそ、その強烈な風潮に流されないように「自分」というものを固定する必要があるのです。人と違うことをやっていても「あの人おかしいよね」ではなく、「あの人はあの人なりの考え方があってやっているんだ」と考えることが重要であり、自分自身をそう捉えることです。
外国では思っていることを言葉にしなければ、そして行動をしなければ何も始まりません。外資系の企業が成果主義であることは周知の事実です。自分を助けてくれるのは自分しかいません。そうして人は「強く」、そして「自立」して、人に流されるのではなく、自分をもった「個人」となるのだと、私は思っています。
実感してみるためには、一度外国に、とくにアメリカへ行ってみることをお勧めします。多くの人種、出身、国籍を持つ人々が混ざり合うアメリカでは、全体主義はありえません。おそらく人生観が変わると思います。それほどに世界は広く、あなた自身のコミュニティは狭いのです。これらが、私がアメリカへ行ってみて感じた、個人主義観です。良い悪いという話ではなく(もちろん全体主義が好きな人は好きで結構です)、少しでも皆さんが、自分が生きやすいと感じるための思考のお話をしてみました。
少しでも読者の皆様のものの考え方の参考になれれば幸いです^^それでは!
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